夜風に流され鼻腔を擽ったのは
かつて、愛した人の苦く、甘く、そして優しい香りだった………。
■■あの日あの夜出逢ったことが過ちだった■■
その男に出会ったのは、丁度、自分が慕い続け―そして愛し続けたヒトの四十九日の法要が行われた晩だった。
あの頃の自分は―。
護らねばならない大切なヒトに先立たれ、突然置かれた自分の立場に困惑し、
悪意に満ち満ちた周囲の環境にもなじめず……けれども、「教官」として―国会議事堂警備隊のトップとして、
組織を率いていかなくてはならず…。
そのプレッシャーに押しつぶされそうになっていた時分だった―。その日は、一人になりたくて。
信頼できる数少ない友人で、同僚で、部下の制止を振り切って、逃げ出すように議事堂を後にした。
通常勤務は全うしたのだし、非常用の携帯電話の電源もオンになっている。
念のため、議事堂内全域をカバーしている隊員用の無線も、携帯しているし―
隊長の務めは果たしている…ハズだ。
『たまには…一人になりたいんだ。』
そう、呟いた後姿を友人は、最近トレードマークになりつつある眉間の皺を深くして見送った。
いきつけのショットバーでは、他の隊員と鉢合わせてしまう可能性がある。
かといって、日頃自分の行動範囲といえば、狭すぎて―。
一人でゆったり酒を飲めるような場所すら思い浮かばない有様で―。
思えば、ハタチソコソコの時分から、「国会警備隊の頂点」を目指してただがむしゃらに走ってきて、
目標であった「頂点」にたどり着いてみれば、それは、自分が初めて「愛した」人間を喪って出来た後釜のポジションで―。
そんな自分に、およそ半数の部下たちは反感を抱いていると言う有様。
がむしゃらに走ってきて、気づけば、一人でふらりと遊びに行く場所すら思い浮かべることのできない、
つまらない人間になってしまった。
もう、人っ子一人居ない、公園のベンチに腰を下ろし、ボーっと、遠い夜空を見上げる。
都会の夜空は明るくて、星などさほど見えないが。
それでもその日の日中は青空が突き抜けるような快晴だったから、少ないながらも綺麗に星は輝いていた。
教官―、貴方は何故、私を置いていったのですか?
教官、其処は、寂しくはないですか?奥様にお会いすることはできましたか?
教官、貴方のたった一人のご家族は、私のことを恨んでいるのでしょうか?
教官…教官…私は…貴方を愛していました。
慕っているのだと、自分に嘘を吐き続け、貴方を喪って初めて、貴方を「愛して」いることに気づいたんです。
何もかもが…遅すぎました。
視界に広がる…闇空に輝きを放つ黄金を一つ、掌に収めるような動作で拳を握り締めると。
まるで堰を切ったように涙が溢れた。
『…気分でもお悪いのですか?』
背後にヒトの立つ気配すら察知することが出来ず、ただ、涙を零していた。
『どうされました?』
彼は―背後に立った男は、几帳面にアイロンの掛けられたハンカチを差し出して。
少し困ったような―けれど、大人の余裕を感じさせる優しい微笑を称え、其処に立っていた―。
『温かいものでも飲まれますか?』
ペットボトルを差し出した男は、ふわりと微笑した。
『いえ…あの……?』
『あ、大丈夫ですよ。まだ口をつけていませんので。温かいものでも飲んだら少し落ち着かれますよ。』
さりげなく、隣に腰を下ろした男は、再び、手にしたペットボトルをこちらへと傾けてきた。
刹那―
微かに鼻腔を擽る香りに……瞠目した。
城教官と―同じ香り……。
不思議と、ふわりと優しく自分を包み込んでくれるような―安心できる香りだった。
差し出したペットボトルを受け取ろうとした自分が、ピタリと動きを止めたのを訝しく思ったのか、男は、
どうしました?と首を傾げて問うてくる。
止まっていた涙が、また頬を流れ落ちた。
『貴方の…香りが…っ…っ』
かつての想い人の香りと同じなのだと、細い声で呟くと、男の腕が自分の肩に回りそして優しく…
温かな胸に抱き寄せられて。
自然と自分の腕は彼の腰に回っていた。
温もりを離さないように。 しっかりと。
彼の香りが夜風に舞って消えてしまわないように。そっと。